私は最寄り駅までの道を歩いているときに、仕事のことはもちろん、いろんなことをあれこれと考えています。そのため、少し時間に余裕をもって出かけるようにしています。時間に追われると思うように思考が出来ません。

歩きながら考えるといいアイデアが浮かぶような気がします。前日に考えていた構想を変えることもよくあります。

『ゴリラの森、言葉の海』(山極寿一氏と小川洋子氏による対談、新潮文庫 P153-P154)を読んでいたら、次の会話に出会いました。

山極  この京都大学の近くには哲学の道というものがあって、西田幾太郎や田辺元が歩いたところなんだけど、歩くって考えを浮かべるのにすごくいいですよ。自転車や車に乗っているときは、走ることに神経を集中させなきゃいけないけど、歩くのはその必要がない。だから同時に思考ができる。しかも目や耳にいろんな刺激が入ってきて、その中で考えられる。部屋の中で考えてばかりだと、しかも何もない部屋なら、もう自滅しますね。

小川  ですから作家をホテルに缶詰めにするのはよくない(笑)。ベートーベンも、ハイリゲンシュタットの森を一日中歩き回っていました。明治の小説を読んでいると、しょっちゅう散歩をしています。約束などせずに、徒歩で相手を訪ねていって、留守だったらまた帰ってくる。無為の時間が多いんですね。現代のわれわれから見れば非効率的な中に生きている。しかしそうした無駄が人間には必要だと感じます。現代社会はそういうものを切り捨てる方向に動いていますが。」

今や街中を歩いている人の半分近くは、歩きスマホをしています。しかも若い人はイヤホンもしている姿をよく見かけます。自らの目と耳で街からいろんな刺激を受けることを避けているようにも見えます。

「もったいないなあ」とずっと感じていました。思考に絶好の機会を逃しているように思えてなりません。また、歩きスマホは他人を交通事故の危険に晒し、自らも晒されている自覚があるのかなあと心配になります。

更に気になることは、日々熟慮や判断を迫られることが多い中年の人々にも、歩きスマホが目に見えて増えているように感じることです。

スマホによるドーパミン中毒でなければいいのですが。